「賤ヶ岳の七本槍」の一人
加藤清正と仲良し。「オイ市松」「何だ虎之助」と互いを呼ぶ間柄
気の荒い大名扱いされやすいが、なかなかの人情家でもある
関ヶ原の合戦で敗れ、八丈島に流された宇喜多秀家に酒贈る(実際は正則の飲む酒を運ぶ船が嵐を避ける為八丈島に避難した際に秀家に酒求められ、贈ったのがきっかけ)とか、少年時代に暑さで死にかけたところを救ってくれた尼僧には米を毎年贈る等、結構義理堅い
広島城修築を将軍家に無許可で行ったのが仇になり、信州へ追い出された
追い出された先の信州では結構善政敷いたとか。田の等級別に年貢定めた「福島の棹受帳」や松川堤防を千両の予算で改修したという「大夫の千両堤」が残っているという
改易時点でオワタ感が強いが、転封後も四万五千石で大藩とはいえないまでもそこそこの待遇をされている
なお幕府の検視人が来る前に火葬されたとかで改易後に移された信州高井藩 (今の高山村付近) も取り潰された
清正とは反対に、仕事は家臣に丸投げだった
だがそのおかげで政務にも軍務にも人材がそろっており、これも加藤家とは反対に、改易後の再就職は引く手数多だったとか
江戸から改易伝える役人が来る時「主人直命書無くして城地明け渡しならざる」と家臣団が一致団結。直命書が届くや全員正装で整然と城地を明け渡した
短気で凶暴おまけに酒乱という、三国志の張飛を思わせる人物
当然ながら三成との相性は最悪。朝鮮出兵までは同じ豊臣仲間でやってきたが、秀吉死後に決裂するのは時間の問題だったように思える
実は朝鮮出兵にはほとんど参加してない。 ちょうど中間地点にある「京畿道」を統治。補給路の確保と義兵の駆逐に全力を注いでいたと思われる。苦労の割に手柄の少ないポジション
大坂の陣の際に自身の兵糧を豊臣側に譲り渡していた。 これも国替えの一因であったらしい