その言語は高句麗と大同小異で,四方を強敵に包囲されているため,必然的に高句麗の直接間接の支配をうけざるをえなかった。前108年,漢の武帝が漢四郡を設けたとき,沃沮は玄菟郡(げんとぐん)治に入った。そのころの中心地は現在の咸興に比定されている。しかし高句麗族の強大化にともないその支配に屈した。3世紀半ば曹魏の毋丘倹(かんきゆうけん)の高句麗遠征のおりには,高句麗王の宮(位宮)が沃沮に亡命したので沃沮も魏軍の討伐をうけ,245年,玄菟太守王頎(おうき)の攻略に下った。このとき高句麗王はさらに逃れて北沃沮に走ったという