第5項問題
日本政府(大隈内閣、与党は立憲同志会)は、事前に英、米、仏、露の列強に二十一カ条を内示していた。しかし、それは第一から第四項までであり、第五項を秘密にしていた。それは1~4項は列強も戦争の帰結として当然と受け取るであろうが、第5項は日本が中国を保護国化する意図ととられかねず、列強の既得権やアメリカの「門戸開放、機会均等、国土保全」という中国政策の原則にも反することだったからである。加藤高明外相は中国政府の実力を軽視する傾向があったので、あえて第5項を加えて迫ったのだった。ところが、中国政府はこのことを知ると、第五項を強調して宣伝した。米英政府は第五項の内容を日本に問い合わせてきたので、外相加藤高明は第五項は「希望条項」にすぎないと弁明し、かえって不信を買った。そのため政府の予測に反して交渉は難航、2月からはじまり、二十回ほど交渉し、満州・山東などの駐留軍を増強して圧力を加えたが歩み寄りはなく、5月、加藤外相の交渉に不満な元老山県有朋の意見で第五項を削除して最後通牒とした。当時、野党の政友会総裁だった原敬も、中国を侮った外交姿勢を批判している