ナポレオンとプロイセンの戦争
ナポレオン1世は前年、トラファルガーの海戦でイギリスに敗れたものの、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)でオーストリア・ロシアの連合軍を破り、大陸では圧倒的な力を示した。そのうえで1806年には自らドイツ諸侯との間でライン同盟を結成して、ドイツ西南部を実質的に支配下においた。プロイセンは1795年以来、対仏同盟には加わっていなかったが、このフランスの侵出を警戒して宮廷内に対仏強硬論が台頭し、ロシアと同盟してフランスと戦うことを決意した。1806年10月14日、ロシアとの同盟の上で、プロイセンは対仏宣戦を布告した。
ベルリン勅令 両軍は中部ドイツのイエナとアウエルシュテットで戦ったが、ナポレオン軍は優位に戦いをすすめ、10月にプロイセンの首都ベルリンを占領、プロイセンにとっては首都をフランス軍に占領されるという屈辱を味わうこととなった。この情勢の中でイギリスはフランス支配下のアムステルダムなどの港を海上から封鎖してフランスに圧力をかけてきた。それを受けたナポレオン1世はイギリスに対する戦略として、翌11月ベルリンにおいて、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発した