アレクサンドロスの勝利
前年の332年、マケドニアを発って東方遠征を開始したアレクサンドロスは、グラニコス河の戦いで勝利した後、イオニア地方から小アジア内部に侵入し、サルデスを落とし、フリュギア地方の中心都市ゴルディオンに達した。遠征1年目をゴルディオンで迎えたアレクサンドロスは、初夏に出発し、アンカラから南下してタウロス山脈を越える「キリキア門」の隘路のペルシア守備隊を蹴散らして通過し、地中海岸のタルソスに出た。ところがアレクサンドロス自身がキュドノス川での水浴が原因で高熱を発し(急性肺炎にかかったか)、回復するのを待ち、秋口になって海岸沿いにイッソスを過ぎて南下した。
一方、ダレイオス3世のペルシア軍は8月にバビロンを出発、大部隊が展開しやすい平野でマケドニア軍を迎え撃つ作戦であったが、アレクサンドロスが病気のため進軍が遅れているとの情報を得た。ダレイオス3世は待ちきれず、自ら軍を動かして北方からイッソスに向かった。両軍併せて10万の軍勢が、空前のすれ違いを演じた。
ペルシア軍が反転してマケドニア軍の背後にせまると、驚愕したアレクサンドロスはただちに北上してイッソスに戻り、両軍はピナロス川を挟んで対峙することとなった。アレクサンドロスは重装歩兵・密集部隊を率いてすばやく川を渡り、続く騎兵がダレイオス3世の本陣に突進した。ペルシア軍の騎兵は狭い場所で戦列を展開できず総崩れとなり、ダレイオス3世はいちはやく逃亡した。ペルシア軍は平野部での戦いをさけ、狭い海岸部での会戦となったことが敗因であった。アレクサンドロスはただちにダレイオス3世を追撃、捕らえることはできなかったが、ダレイオス3世の残した豪華な天幕と見事な調度品と共に、同行していた彼の母、妻、三人の子供を捕虜とした。
アレクサンドロスはイッソスの戦いでの戦利品を獲得して、それを豊富な資金として財政難を初めて脱することができた。同じ333年晩秋には、アレクサンドロス軍は、ペルシア本土を直接叩く前にその背後を平定しておくため、先にフェニキアからエジプトへと軍を進めた。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.118