現代の価値観からすれば“重すぎる”ことになるのかも知れないが、スーパークリークは宿命へ向かって突き進んだ。
順調な歩みだったわけではない。
脚は外向していた。デビューは2歳12月まで遅れた。初戦は気の悪さを出して2着に敗れた。2戦目に勝ち上がったものの、以後は4着、3着。3歳3月・すみれ賞でやっと2勝目をあげるが、その後左前脚を骨折。春シーズンを棒に振ってしまうこととなる。
幸いにも秋には復帰できたが、神戸新聞杯は3着、京都新聞杯は6着と敗れ、菊花賞の優先出走権を確保することはできなかった。賞金順で見ても、フルゲート18頭に対してスーパークリークは19番目。生まれる前からの規定路線である菊花賞は、夢のまた夢に終わりそうな状況だった。