アメフトから転向して成功したレスラーのひとりで、昭和42年日本プロレスの「ダイヤモンド・シリーズ」に初来日し、ターザン・タイラーとのコンビで馬場、吉村組からインタータッグを奪取したが、終始日本人を馬鹿にしたような態度を取り続けた。実は彼の父親が太平洋戦争で戦死したため、かなりの日本人嫌いだったのだという。
昭和49年には国際プロレスに来日、ストロング小林の最後のIWA世界ヘビー級選手権防衛戦の相手となったが、ここでもTシャツを着て試合をするなどわがまま振りを見せた。後にプロモート業にも手を出し、恩人のレロイ・マクガークを裏切り、MSWA地区の興業権を奪い取った