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4: アセム雨宮◆UD16NvPYxY
2025-12-19 14:01:00 OMPVG0082

カール=マルテルの勝利

 イベリア半島を制圧したイスラーム勢はアブドゥル=ラフマンに率いられ、すでに720年にピレネーを超えてガリアの地中海岸(現在のラングドック南部)に進出し、北アフリカのベルベル人の軍勢にそこを守らせていた。南ガリアの地方政権アキテーヌ侯ユードは北からはフランク王軍、南からベルベル人の軍勢に圧迫されることとなった。ユードがベルベル人の首長と協定を結んだことでアブドル=ラフマンを刺激し、732年の侵入になったと考えられている。イスラーム勢およそ6万がピレネー西端の峠を越えバイヨンヌ、ボルドーへ進み、ベルベル人首長は倒され、ユードの軍勢も蹴散らされ、アキテーヌは略奪された。イスラーム勢はトゥールを目指し北上(サン・マルタン修道院の豊かな財宝のうわさにひかれたともいう)すると、アキテーヌ侯ユードはそれまでの確執を捨てて王国の宮宰に援助を求めた。カール=マルテルは動員令を出し、オルレアンでロワール川を渡り、ポワティエに向かい、ヴィエンヌ川とクラン川の合流点近く、両軍は7日間のあいだ対峙した。ついにフランク側がイスラーム軍の騎馬隊を潰走させ、アブドゥル=ラフマンも敗死し、フランク軍の勝利て終わった。<堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』初刊1977 再刊 2006 講談社学術文庫 p.81>
フランク軍の戦力 フランクの軍団は、ローマ風の革と鉄の装具に槍と剣を持つ歩兵が主力であった。ローマ、あるいは西ゴートの騎兵の遺制が南ガリアに残っており、豪族の家臣団は重装備で騎乗していたと思われる。カール=マルテルの戦力の中核は、古ゲルマンの従士制の系譜をひく自由身分の戦士団であった。カール=マルテルはこの重装騎兵隊を維持するため、教会・修道院の土地を収公して、封土として与え、教会・修道院に対してはその分を保障する意味で十分の一税を設定した。こうしてフランク王国において封建的土地保有の原型が形成された。<堀越孝一『前掲書』 p.82>

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