パルティア遠征
前1世紀からローマの東方で、ローマと対峙していたパルティアは、2世紀には王国の派閥争いから分裂が進み、かつての勢いを失っていた。パルティアの弱体化に乗じてセプティミウス=セウェルス帝は195年からパルティアのニシビスを占領、197年には都クテシフォンを掠奪した。その後継者カラカラ帝は治世の大半を東方遠征ですごした。216年にはティグリス川を越えてアルベラを急襲したがパルティア軍の反撃を受け、講和してエデッサに戻ろうとしたが、その途中のカラエで部下の親衛隊の手で殺害されてしまった。
カラカラには残虐な行為が見られる。216年の春にアレクサンドリアのアレクサンドロス大王の墓を訪れた際には、青年男子の虐殺を命令するという不可解な残虐行為を行っている