怪僧の暗殺
1916年2月、前年の9月以来休会になっていた国会(ドゥーマ)が再開されたが、その条件は「ラスプーチン問題を取り上げない」ということだった。ニコライ2世は前例を破って国会の開会式に出席したが、議院内閣制を認めず、政府と国会の対立は深まるばかりで、ニコライは政治的に孤立していた。
(引用)この年も押し詰まった12月29日の晩から30日の朝にかけてラスプーチン暗殺計画を練っていた皇族ドミトリー・パヴロヴィチとユスーポフ公、それに極右議員プリシケヴィチは、ラスプーチンをユスーポフ邸に招いた。ユスーポフらの証言によると、そこにラスプーチンに青酸カリ入りのケーキを食べさせ、毒入りワインも飲ませた。
だが、平然として死ぬ様子もなかったので、ピストルで撃った。それでも、この怪物はもがき、ほえたてて死なないため、近くの運河に運んで行って、沈めて殺したということだ。ドミトリーはニコライのいとこであり、ユスーポフはニコライの妹クセニアの女婿にあたる。ラスプーチンがロマノフ朝を蝕む害毒として、いかに皇族やニコライの近親者らから憎まれていたかがわかる。<保田孝一編『ニコライ二世の日記』1990 朝日選書 p.232>