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10: アセム雨宮◆UD16NvPYxY
2026-03-13 16:19:14 OMPVG0082

フィレンツェ共和国の危機

 そのころ、1517年に宗教改革が始まり、ヨーロッパは激動の時代を迎えていた。フランスのフランソワ1世と、神聖ローマ帝国のカール5世の対立は、イタリア戦争を再燃させ、1527年にはカール5世はフランス王と手を結んだローマ教皇に対して傭兵部隊をローマに派遣して略奪を行わせた。このローマの劫略は、イタリア=ルネサンスの終わりを告げる動きとされている。この時、フィレンツェでは共和派が決起して教皇クレメンス7世を後楯として市政を支配していたメディチ家を追放した。そして共和派はフィレンツェを防衛するため、市の城塞化を進め、軍事九人委員会を設けた。
要塞構築総監督ミケランジェロ 1529年1月10日、ミケランジェロはフィレンツェ共和国最高機関シニョリアの書記局「自由及び平和の十人委員会」の中に設けられたフィレンツェ政府軍参謀本部である“軍事九人委員会”の一人に選ばれ、さらに4月6日、1年間の「フィレンツェ防衛築城委員長」に就任した。「ルネサンス芸術の天才ミケランジェロはいまや軍事防衛築城の天才としてその全精力をかたむけて、フィレンツェ自由都市をまもる要塞各地の防衛堡塁の再建又は創建にあたった」<羽仁 p.194>
 フィレンツェは敵に包囲されて食糧難に陥りながら、闘いを続けた。しかし9月に入り内部の親メディチ派が敵と内通したため危機が迫り、ミケランジェロも一旦ヴェネツィアに亡命した。共和国軍が形成を盛り返したので、間もなくミケランジェロはフィレンツェに戻ったが、そのころからフィレンツェにメディチ家政権を復活させるべく、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の軍事協力が強められ、再びフィレンツェは危機に陥り、ミケランジェロは城塞防衛に奔走しなければならなかった。<羽仁 p.227>
フィレンツェ共和国の敗北 皇帝カール5世の派遣したスペイン兵を主体とする皇帝軍の総攻撃は1529年末に始まり、フィレンツェ市民は果敢に抵抗したが、1530年5月からは完全に包囲され、食料が底をついた。それでも持ちこたえていたが、防衛軍司令官がメディチ家側に寝返ったことから、ついに8月8日、10ヶ月あまりの包囲戦のは終わり3万もの犠牲を出して、フィレンツェは降伏した。フィレンツェはメディチ家支配が復活し、共和派の指導者は次々と捕らえられ殺された。ミケランジェロにも追及の手が伸びたので、彼はメディチ家礼拝堂の地下に隠れて逮捕を免れた。

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