唐王朝が630年、突厥(第一帝国。厳密には東突厥)を滅ぼしたとき、服属した旧突厥人を統治するためにはじめた異民族統治法。その征服地に州・県を置き、州の都督・刺史(知事にあたる)、県令に現地の異民族の有力者を任命するやりかたで、そのような州を羈縻州といって通常の内地の州と区別した。羈縻(きび)とは、馬や牛をつなぎ止めておくという意味で、異民族の地域を唐王朝の州県に組み込みながら、現地の異民族にその地の一定の統治権を分け与える、異民族に対する懐柔策と言うことできる。また、いくつかの州をまとめて監視するために都護府を置き、都護府の長官以下の官吏と付属の軍隊は中央から派遣した。
唐王朝はこの羈縻州を征服した異民族の地域に広げて行き、冊封体制とは異なる直接的な統治を行いながら、現地有力者を地方官吏に任命するやりかたで、現実的な世界帝国としての支配を周辺に広げていった。このような異民族支配を羈縻政策という