講和の背景
清朝政府が講和を急いだ理由は、1884年の12月に、同じく清朝の宗主権下にあった朝鮮で、日本と結んだ開化派(独立党)のクーデタ甲申政変が起こったためであった。金玉均らは清仏戦争で清軍がベトナムに釘付けになっている間に、日本と結んで清と結ぶ閔氏一派を排除し、近代化政策を実行したのだった。
李鴻章は朝鮮情勢を重視して機敏に反応し、軍隊を派遣してクーデタを鎮圧したが、その後も日本とのにらみ合いが続いたため、ベトナムでの戦争継続が困難になると判断し、講和を急いだのだった。李鴻章が講和を主張したのは、戦争が長期化すると自分の虎の子の北洋軍閥の兵力をさかなければならなくなることを恐れたのだ、という指摘もある。<加藤徹『西太后』中公新書 2005>
朝鮮における甲申政変の事後処理としての日本と清の間の天津条約1885年4月に締結された。それも甲申政変の軍事衝突では清が優勢に終わり、日本の勢力は後退したが、天津条約では清は互角の条件(相互の撤退と、今後の出兵の際の事前通知)で妥結したのは、ベトナムでのフランスとの戦争がまだ終わっていなかったからだった